サイトマップを表示します。

【平城遷都1300年祭公式ホームページ】にリンク

【平城遷都1300年祭】を応援しています!

大和路を訪ねて 

〜 私の一押しの大和路 〜 【その12】  米田嘉浩

―磯城郡川西町その1―

前回は私の住んでいます磯城郡川西町の隣町、大和郡山市額田部寺町の古刹「額安寺」をご紹介しました。今回は川西町内のご案内をしたいと思います。

今から約10年以上前になりますが、川西町のことが新聞の1面トップで報道され、大いに賑わいました。当時、人口約9000人の町に、短期間で1万人を超える考古学ファンが全国から集まりました。

皆さんの目的は、巨大前方後円墳「島ノ山古墳」の見学でした。その時、この島ノ山古墳の前方部頂上を発掘調査した結果、木棺を粘土で覆った埋葬施設が発見され、その木棺を被膜した粘土内から133点もの「鍬形石や車輪石、石釧(いしくしろ)と呼ばれる石製の腕飾り類が出土したのです。鍬形石が21点、車輪石が80点、石釧が32点です。

又、棺内からは三面の獣形鏡や剣、刀子、櫛、3連の首飾り、玉類も出土しました。

「島ノ山古墳」は寺川と飛鳥川に挟まれた標高48bの微高地に築かれた全長200bの大きさを誇り、幅約40bの周壕の囲まれた、とてもスッキリとした美しい姿の古墳です。近鉄橿原線の「尼ヶ辻駅」付近の車窓から見える「十一代垂仁天皇の菅原伏見東御陵(宝来山古墳)」に似た感じの風景です。

当時、私は川西町の教育委員長の職にもありましたので、見学者の皆さんのご案内等に奔走したことを思い出します。一度に大勢の皆さんが集まられたため、大変だったのは見学者のトイレの問題でした。集会所のトイレでは足りず、付近の民家のトイレをお借りしました。近隣の方には大変お世話になりました。

島ノ山古墳は5世紀の初め頃に築造された前方後円墳と言われています。前方後円墳は3世紀の前半に大和盆地に突如として出現した古墳で、その後全国に広まっていきました。

卑弥呼の宮殿跡ではないかと今話題になっている巻向遺跡内にある「巻向石塚」、「巻向矢塚」、「勝山」、「東田大塚」の諸古墳が最初ではないかと言われています。いずれも全長100b前後の大きさで、箸墓古墳に代表される大型前方後円墳の先駆けと言われています。箸墓古墳は280bの大きさを誇り、卑弥呼の墓ではないかとの説も有力です。

更に大型化、巨大化した前方後円墳はその後、「桜井茶臼山古墳」や「メスリ山古墳」が桜井市南西部の磐余の地に、又、天理市の山の辺の道沿いに「西殿塚古墳」や「崇神天皇陵」、「景行天皇陵」が築造されています。

その後4世紀後半になり、大王クラスの墳墓は奈良市平城京の北方の佐紀の地に移っていきます。更に5世紀には大和を離れ、河内の古市や百舌鳥へ移ってしまいます。

ところが、川西町の「島ノ山古墳」、広陵町の「巣山古墳」や御所市の「宮山古墳」等は大和で築造され続けます。そこで、この「島ノ山古墳」の埋葬者は誰かとなりますが、決定的なものはありません。

いくつかの説を紹介しますと、

@蘇我入鹿説、A古墳の立地から大和川水運の管理者説、B大和政権の直轄地(屯倉)を管理していた渡来系氏族説、C出土品から類推し神に仕える巫女説、更にはD大王の后説です。他にも諸説あります。私はCの巫女説ではないかと思いますが、自信はありません。

同古墳へは近鉄橿原線「結崎」駅から西へ徒歩約25分の所にあります。足を運んでみて下さい。尚、出土品は奈良県橿原考古学研究所付属博物館に展示されています。

フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

フリー百科事典
ウィキペディア
Wikipedia
もどる
【 もどる 】
僕の名前は『うしか君』です。よろしくね!