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大和路を訪ねて 

〜 私の一押しの大和路 〜 【その11】  米田嘉浩

―知られざる古刹その2―

私の住んでいる磯城郡川西町の隣町、大和郡山市額田部寺町に是非ともご紹介したい古刹があります。熊凝山額安寺(がくあんじ)です。前々回にご案内した百済寺同様、歴史的に古い由緒を伝えています。

寺伝によりますと、聖徳太子の開いた学問道場「熊凝精舎」が全身とのことです。聖徳太子が活躍したのは6世紀の後半から7世紀の前半ですから、約1400年もの歴史をもつ名刹です。創建は飛鳥時代に遡ります。

釈尊の祇園精舎などに倣って熊凝の精舎と名づけられ、古くは「額田寺」とも「額寺」とも称されています。尚、この「額安寺」の寺号は推古天皇から賜ったとのことです。

創建当時には、三重塔、金堂、講堂等の主要伽藍をはじめ、たくさんの堂宇が立ち並んだ大寺院だったようです。同寺所有の奈良時代の「虚空蔵菩薩半跏像」や平安時代の「文殊菩薩騎獅像」は重要文化財であり、飛地境内にある「鎌倉墓」と称される8基の五輪塔も重要文化財」の指定を受けています。

この五輪塔の中で一番大きな塔中から鎌倉時代の律宗の僧で社会福祉事業」の先駆者として慕われていた「忍性菩薩」の骨蔵器が見つかり、これも重用文化財となっています。この骨蔵器に刻まれた忍性菩薩の記録は歴史的に大変重要なものとされています。

この由緒ある額安寺も1499年の赤沢朝経の大和乱入時に消失してしまいます。その後、豊臣秀吉からの支援でなんとか寺の勢力を保ってきていましたが、明治以降は廃寺同然の状態に至っていました。

同寺の復興の事業は先々代の「喜多亮快住職」が1970年代から始められ、江戸時代に建造された本堂の壁や床を修理し、収蔵庫も造られます。そして、京都国立博物館と奈良国立博物館に委託していた「虚空蔵菩薩」と「文殊菩薩」を引き取り収蔵し、更に、1980年代には境内の五輪塔から出土の忍性菩薩の骨蔵器も収蔵庫に収納しています。亮快住職は1986年に亡くなられ、後を奥さんの喜多寿佳先代住職が遺志を継がれ復興事業を推進。1993年には本堂の屋根瓦が崩落したのを機に解体修理を行っています。

本堂の建物は奈良時代の仏堂様式を伝える大和建築の特質を残しています。(大和郡山市の指定文化財)  また、2004年からは庫裏や客殿の整備も行われますが、これらの一連の再建にかかる費用を私財を処分して賄ったとのことで、頭の下がる思いがします。

もう2年以上前ですが、読売新聞に「舎利、額安寺に奉納へ」という記事が掲載されました。その記事には「インドの初代首相のネール首相から世界的な宗教画家「杉本哲郎画伯」に贈られた釈迦の遺骨「舎利」が聖徳太子建立の名刹、大和郡山の額安寺(喜多寿佳住職)に奉納される旨の記載がありました。一国の首相手渡しという来歴の明白な「仏舎利」は極めて稀なもののようです。額安寺が由緒ある偉大な寺である証拠といえましょう。

2008年11月24日、無住だった有名な寺を夫の亮快師と二人三脚で見事に復興した喜多寿佳住職は97歳で亡くなられました。ご冥福をお祈りします。

同寺へは近鉄橿原線「平端」駅から南西に向かい、バス通り佐保川に向かって約1・5km歩くと川に出る手前にあります。

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